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平野 啓一郎:自らを愛したいなら、他者の力を借りてみよう

2016/10/3(月) 12:42配信

TED

平野 啓一郎

翻訳

最近、色々悲しいニュースなんかを見まして「自己愛」―自分を愛するということについて よく考えます。僕たちは他人を愛しなさいということは一つの価値観として大切なこととして教えられてきましたが、自分を愛するということについてはあまり積極的に語ってこなかったんじゃないでしょうか。なんででしょうか。


多分、わが身がかわいいというのは自明のことで、わざわざ改めて自分を愛しなさいと言う必要がないからと思われてきたからなのかもしれません。人間は利己的なところがあります。


なんでも自分の思い通りにしたいと、しかし何もかもがうまくいっているから、じゃあそういう自分を愛することができるかと言うと、またちょっと違うかもしれません。どちらかと言うと自己愛が語りにくいのは ナルシシズムみたいな感じで、気持ち悪いからというのがあるのかもしれません。


鏡を見て 「俺は本当に俺のことが好きだなあ」と「ちょっと邪魔しないでくれ」と言う人がいたとすれば、僕のことじゃないですよ(笑)、そういう人がいればどうぞ勝手に ―いつまでも鏡を見ていてくださいという気持ちになります。


そうなるべきだと僕が言いたいわけじゃないんですね。ただ、人生はやっぱり辛いこともあります。ハッピーなまま一生が終わればいいですけれども、場合によってはですね、多くの人から「お前のことが嫌いだ」と「お前なんかこの世にいてほしくない」と言われるようなことがあるかもしれません。


そういう苦しい状況の中で最後の最後にですね、どっかで人間はやっぱり自分自身を自分の責任で ― 自分の面倒を見るつもりでですね、愛さなきゃいけないんじゃないかと。


「お前のことが嫌いだ」とみんなに言われたときに「そうだ、実は僕も自分のことが嫌いなんです」と言ってしまった瞬間にですね、僕たちはやっぱりそのまま生きていくのが嫌になってしまうんじゃないのかと思うんですね。


僕自身人生の中で何度かそういう風な必要性を感じたことがありますし、今後の人生何が起こるか分かりませんから、またそういう風にどっかで自分を 自分の面倒を見るつもりで愛さなければいけないという事態が起きるかもしれません。


そんなこと起きずにハッピーなまま人生が終われば結構なことですけど、ただ僕は自分自身のことがずっとあんまりよく分かりませんでした。


我ながら良いことをして人から感謝されたり喜ばれたりすると、俺は結構根は良い人間なんじゃないのかなとちょっとほっとするところもありましたし、逆に人をひどく傷つけてしまったり怒らせてしまった時には 自分にひどく失望することもありました。


自分はなんか本質的に冷酷なところがあるんじゃないかとか自分を愛すると言うのは実は誰を愛するよりも難しいことなのかもしれません。なぜなら、あまりに何から何まで知り尽くしているからです。


過去に自分が色々やってきたことを思い浮かべてみて、こんなことしてきたあんなことしてきた、良いこともしてるかもしれませんけど嫌なことも色々思い出してしまう。そういう自分をまるごと俺は本当に自分が好きだと言えるのかどうか、何か根本的な考え方の変化が必要なのかもしれません。


僕は色々な自分 ―結構俺はこの時は良い自分だったんじゃないかとあるいは嫌な自分だったという自分を思い返してみて、それをひとまず全部自分の姿なんだと受け入れるところから始めました。


根は実は良い奴なんじゃないかとか、いや俺は本質的にやっぱり 冷酷なんじゃないかと、どっちの自分が本当だろうと考えることを止めて全部自分なんだと考えるところから始めました。


そして、どうしてそんなに1人の自分である僕が ―変わるのかということを考えました。結局は対人関係の中で相手次第、場所次第なんですね。実家の高齢の祖母としゃべっている時には僕は非常にくつろいだリラックスした自分になりますし、仕事の相手としゃべっている時にはシビアな顔で難しい話をしたりもします。


はらわたが煮えくり返るくらい嫌いな奴の前に出るとやっぱり僕の口調もこんなに穏やかでなくなりますけども、なるべく会わないようにはしてますよ、そういう人とは。とにかくそれぞれの自分は随分と違うんですね。


そして、自分のことを全体的に愛するということは非常に難しいかもしれませんが、誰かといる時の自分は好きだということは実は言えるのかもしれない。あの野郎といるとなんか嫌な自分になってしまうと、だけどあの人といる時の自分はまんざらではない結構好きだということは実はそんなに難しいことじゃないのかもしれません。


恋愛について考えてみましょう。ある2人の女性がいるとしますね。どっちも僕はいいなと思っているとします。ある人とまず一方の人とデートに行ってご飯を一緒に食べるとすごく楽しくて次から次へとおもしろい冗談とか言えて、向こうのリアクションも良いと自然に笑顔になってもう気がついたらこんな時間だと慌てて終電に駆け込んで今日は良い一日だったなというデートだったとします。


もう一方のほうは好感を抱いてるんですけど、いざ実際にデートに行ってみるとなんかあんまり面白いことも言えなくて、ちょっと油断してしまうとシーンとなってしまって自分はすごく冴えない人間になっている感じがする。


遅くまで 2軒目まで行こうかなと思ったんだけど1軒目くらいで「じゃあまた」ってことでデートが終わってしまったと、どっちの女性ともう1回会いたいかと言えば 当然ながら僕は前者の女性とまた会いたいと思います。


それは相手が好きだからということもあるかもしれませんが、その人といる時の自分が好きだからその自分に楽しさを感じてその自分を生きることに生きがいを感じるからです。愛とは誰かのことを好きになることだとこの定義自体はもちろん間違っていませんが、今むしろ僕が付け加えたいのは愛とはむしろ他者のおかげで自分を愛することができるようになることだとそういうふうに考えてみたいと思います。


あの人の前でなら自分は思い切り ―リラックスして素直になれて色んなことをさらけ出せる。ほかの人の前では決してできないと不幸にして人間の関係には終わりが来ることがあります。けんか別れしてしまうこともあれば死別してしまうこともあるかもしれません。


誰かを失ってしまう悲しみはもちろん、その人の声が聞けない、その人と抱擁できない、色々なことがあると思いますがもう一方でその人の前でだけ生きられていた自分をもう生きることができないという寂しさがあるんじゃないでしょうか。


あんなに自由に色んなことをしゃべれたのはあの人の前だけだった、あんなに素直になれたのはあの人の前だけだった、あんなに馬鹿なことをしてあんなにくだらないことをできたのは ―あの人の前だけだった、その人がいなくなってしまって自分はもうその好きだった自分を生きることができない。


それが別れの悲しみなんじゃないでしょうか。逆ももちろん真なりです。僕は誰かから「あなたのことを愛してます」と言われれば有頂天になりますね「やったあ」と、しかし誰かから「あなたといる時の自分 ―あなたのおかげで自分のことが好きになれた」と告白されたなら、あるいは「ほかの誰といる時よりもあなたといる時の自分が好き」という風に告白されたならそれは何かもっとこう胸に迫ってくるものがある気がします。


自分の存在がそんなふうに他者の存在を肯定させてるんだということには何か感動的な喜びがあります。人間はそんな風に好きな自分というのを1つ見つけるごとにおそらく生きていくための足場というのができていくんでしょう。


たくさんの人に囲まれて生きているとその中の何十パーセントたくさんの人に自分が愛されないとなんだか生きていけないような気持ちになります。教室の中、会社の中、しかし好きな自分の数を数えていけばそんなに何十個もいらないのかもしれません。


2つや3つあの自分は結構好きだなという自分が自分の中にあればそこを足場にして生きていける。5つも6つもあれば もう十分というぐらいかもしれません。教室の中に友達が3人しかいないと思うのか3人も自分を好きにさせてくれる人がいると思うのかこれは考え方の違いです。


自分を愛すると言うのはなにも鏡を見て「俺が大好きだ」ということではなくて、誰かのおかげで自分を愛せると他者を経由して自分のことを好きになれるということではないでしょうか。おそらくそこが自分を愛するという入り口なんだと思います。そして、だからこそやっぱり 我々は他者を愛するのです。かけがえのない存在として、以上です (拍手)


数々の受賞歴を持つ、作家 平野啓一郎が、「自分を愛するとは、どういうことか」という普遍的な問いを投げかける。「自分が愛する人々を鏡だと思いなさい。そうすれば、彼らの目に映る、最良であり、真実でもある自分の姿」が見られるだろう」愛すべき一面や、そうでもない一面など、自分の中に同居する様々な自我同士を和解させられずにいる人々への、平野氏からのアドバイス。

動画撮影日:2012/10/18(木) 0:00
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